2009年06月26日

油田(ゆでん、英: oil field)とは

油田(ゆでん、英: oil field)とは、地下に多量の石油が埋蔵している地域のことである。世界的には、石油を含む地層は数百km以上の広範囲に分布していることが多いため、複数の油井により石油を採取する。地球全体では、陸上・海上を問わず4万か所を超える油田が点在している。世界最大の油田は、サウジアラビアのガワール油田とクウェートのブルガン油田で、ともに埋蔵推定量600億バーレル以上である。油田の位置とその埋蔵量は近代以降、各国の紛争の原因の一つとなっている。
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油田の設備としては、原油やガスを採取する油井、採取した油を輸送するパイプラインなどの設備がある[1]。油田は、既存の都市などから離れた地域や海上にあることも多いため、採掘作業を行うにあたっては、補給を確立することが重要な問題となる。労働者も採掘施設内に、長い場合は何年も居住する場合がある。そのような場合、採掘施設には水・電気を始めとする居住設備を整備する必要がある。このため、採掘施設は掘削装置やポンプだけではなく、一つの都市の様相を示す。幾つかの会社においては、採掘施設の全体の建設と管理を担当する部門があるほどである。

油田において最も恐ろしい事故は火災である。戦争や掘削中の天然ガス突出事故、人為的ミスや施設の老朽化に伴い発生し、周囲の採掘機能まで麻痺させる上、深刻な環境破壊を招くこともある。事故の際の消火方法は、キャッピングといって油田にクレーンでフタをする方法や、リリーフウェル(救助井)を新たに掘削して水や薬剤を大量注入する方法や火薬等を爆発させて爆風や酸欠環境を利用する手段が採られる。湾岸戦争やイラク戦争では油田が爆破・放火され炎上したため、二酸化炭素などのガスを吹き込んで消火した。後者で大規模なものは、ソ連が自国の油田火災の際、核爆発を起こして止めた事例が存在する。

2009年06月10日

カフェイン (caffeine) はアルカロイドの一種

カフェイン (caffeine) はアルカロイドの一種。プリン環を持つプリンアルカロイドの一種で、コーヒー類に含まれることからこの名がある。また、安息香酸ナトリウムカフェイン剤などの強心・医療用覚せい剤(中枢神経刺激薬)としても使われる。IUPAC名は 1,3,7-トリメチルキサンチン。さらに、抗がん剤が破壊したがん細胞のDNAの修復を阻害する作用あるとされる(抗がん剤などの効果を高める)。

コーヒー、コーラ、緑茶、紅茶、ウーロン茶、ココア、チョコレート、栄養ドリンクなどに含まれる。また、一部の医薬品にも含まれる。結晶は一水和物 (C8H10N4O2・H2O) もしくは無水物(無水カフェイン、C8H10N4O2)として得られる。白色の針状または六角柱状結晶で匂いはなく、味は苦い。昇華性がある。

1819年(一説には1820年)にドイツのフリードリヒ・ルンゲによってコーヒーから単離された。分析化学者であったルンゲに、コーヒーの薬理活性成分の分離を勧めたのはゲーテであったと伝えられている。

主な作用は覚醒作用、脳細動脈収縮作用、利尿作用。医薬品にも使われ、眠気、倦怠感に効果があるが、副作用として不眠、めまいがあらわれることもある。カフェインを習慣的に摂取する人が半日から1日カフェインを摂取しなかった時に現れる症状として最も顕著であるのは頭痛であり、その他、不安、疲労感、集中力の欠如、抑うつが現れることがある
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カフェインはアデノシン受容体に拮抗することによって、覚醒作用を示す。また、メチルキサンチン誘導体に共通の活性として、ホスホジエステラーゼの非選択的な阻害作用があり、細胞内cAMP濃度の上昇を引き起こす。これにより、心筋収縮力の増大、気管支平滑筋の弛緩、脳細動脈の収縮のような交感神経興奮様作用を示す。これらの作用の結果、腎血管拡張により糸球体ろ過量(GFR)が増大し、さらに尿細管での水分の再吸収の抑制により利尿作用を現わす。また膀胱括約筋に取り付いてその作用を抑制しているアデノシンの働きをカフェインが妨害するために頻尿になるという説もある。さらに、cAMPの濃度の増大は胃酸を産生する細胞では、プロトンポンプを活性化し、胃酸分泌を亢進する。

若干の依存性も持つが、その場合も害はわずかなものであって、1日に1?2杯飲む程度であれば健康への影響は無視できるほどである。なおカフェインの半数致死量 (LD50) は約 200 mg/kg で、一般的な成人の場合、10?12 g 以上が危険とされる(詳しくはカフェイン中毒を参照)。医療分野において薬事法では1回(1錠・1抱等)あたりに500mg以上のカフェインを含むものを劇薬に指定している。

2009年06月07日

徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから

伊賀忍者は本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。中でも服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、同心として江戸城下の治安の警護に当たった。御庭番は忍者と同様に思われがちだが、誤りであり八代将軍・徳川吉宗が紀州から連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎず、彼ら御庭番は忍者とはかかわりがない(詳しくは御庭番の項を参照されたい)。

徳川家光(家光体制)時、老中(松平伊豆守・阿部忠秋・堀田正盛)、側衆(中根正盛)は、武断政策を強行に進めた。その結果、浪人が増え社会問題化し、島原の乱・慶安事件(由井正雪)といった大規模な事件(一揆)が発生する。 島原の乱・慶安事件の際に大目付として中根正盛が与力20余騎を諸方に派遣して、その動きを詳細に調べさせた。 また、島原の乱の際には、甲賀忍者の一隊が一揆軍の立てこもった原城内に潜入し、一揆軍の兵糧が残り少ないことを確認したという記録が残っている。

桓武平氏の流れを汲む中根氏と服部氏は縁戚関係であり、中根は長安事件に連座して失脚した服部正重(4代目服部半蔵)の叔父にあたる。このことから、中根は忍者だという説がうまれた。
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江戸時代の諸国を行脚していた俳諧師・松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市に当たる地方の出身者だった。そのため、松尾芭蕉は実は忍者あるいは隠密だったのではないかとする説があり、小説などでも題材に扱われている。その根拠として、芭蕉の著書奥の細道の記録どおりに旅行したとすると、一日数十キロ歩かなくてはいけない計算になり、普通の47歳ならば体力的に相当無理がある、などがあげられる。当時の江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎も公儀隠密説が囁かれている。これらの説には決定的な根拠はなく、現状では単なる想像の範疇を出ない。

江戸時代の探検家・間宮林蔵は、幕府の隠密であり、広義には彼も忍者だと言える。少なくともシーボルト事件において高橋景保を売ったという彼の行動は儒教道徳的観点から非難され、冷酷な忍者ならではの行動であると評された。

マシュー・ペリーの率いる黒船が浦賀沖に来航した際、幕府の隠密が早速調査のために行動しており、これがいわゆる忍者の活動の最後だった。

2009年04月24日

精油の蒸留法は江戸時代

精油の蒸留法は江戸時代に伝わり蘭医学などで用いられていた。明治時代にはニホンハッカなどの精油を輸出していた時期もあったが、合成香料や海外の廉価品におされ、廃れてしまった。

1970年代に、小学生やその親たちの間でポプリ(en)が流行し、ドライハーブへの関心が高まった。アロマテラピーが紹介されたのは1980年代で、はじめジャン・バルネやロバート・ティスランドらによる英仏の専門書が高山林太郎氏により邦訳され、やがて海外で技術を学んだ者たちが国内で実践を始めた。1990年代にエステブームなどに乗って広まったこともあり、日本に伝わったアロマテラピーの方法はイギリス系に近いものであるが、近年では国内でも精油への科学的アプローチが進み、代替医療としてアロマテラピーに関心を寄せる医療関係者も増えている。2006年頃からバラの香りをかつてない程に再現した、本物のバラの精油よりも大幅に安価な合成香料が開発され、それを添加したガムやドロップが製品が流行し汗がバラの香りと言われて男女間で話題になり、「香り・アロマ」への関心が大衆の間でさらに高まる。

アロマテラピーのしくみ
アロマテラピーの主役である精油が心身に働きかける経路は二つある。ひとつは嗅覚刺激、もうひとつは皮膚や粘膜を通して血流に乗り体内に入る経路である。しかし精油は数十から数百の揮発性有機物の混合物であり、ひとつひとつの成分がどのように影響するのかを追跡するのは容易ではない。

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精油の嗅覚刺激
蒸散した精油の芳香成分は鼻で感知され、嗅覚刺激として大脳辺縁系に到達する(嗅覚の詳しいシステムについては嗅覚の項を参照)。ここで重要なのは、嗅覚をつかさどる部位が、脳の中でも本能的な部分である旧皮質に存在することである。脳は嗅覚刺激を受け取ると無意識のうちに情動を引き起こし、視床下部に影響を与える。視床下部は身体機能の調整を行う中枢であるため、匂いは本能的に身体諸器官の反応を引き起こす鍵となりうる。

精油の香りによって得られる安心感・快感・緊張感・覚醒感・瞑想感などにともなう情動が、心身のバランスを促すことが期待される。

精油が血流に乗る経路
芳香成分が血流にいたるまでには様々なルートが考えられる。吸収された成分は、最終的にはほとんどが肝臓や腎臓で代謝され、尿とともに排泄される。

吸収ルートは大別すると次の4つである。

ボディトリートメントなどによって、皮膚から真皮の毛細血管に至るルート。
呼吸により、鼻から喉・気管支・肺にとどく間に粘膜に吸着し、粘膜下の血管に入るルート。
呼吸により肺胞でのガス交換時に酸素とともに血流に乗るルート。
経口で口から小腸に至る消化管から吸収されるルート(坐剤として肛門や膣の粘膜から吸収させる例もある)。
皮膚は多層構造になっており、皮膚に吸収された芳香物質の血管への到達は極めて緩慢である。呼吸器からの吸収はこれよりも早いが、空気中の芳香物質の濃度を考えれば吸収されるのは微量と思われる。皮膚や呼吸を通して吸収されるルートに比べ、消化管での吸収は非常に急激で多量である。消化管の粘膜に対する強い刺激が予想され、また異物である精油成分の血中濃度が急速に高まるため、代謝系に大きな負担がかかる恐れがある。強酸である胃酸による成分の変性の可能性も捨てきれない。このため、精油の経口もしくは坐剤による使用は、十分に知識のある医師の判断のもとで行われるべきである。

2009年04月22日

日本民俗学

日本での民俗学は近世における国学や本草学にも源流が見られるが、本格的な研究が開始されたのは19世紀末である。一つの嚆矢となるのは坪井正五郎が東京人類学会を立ち上げた1886年であり、民族学・民俗学・自然人類学・考古学等を包含する「人類学」の研究として、「土俗」の調査が行われるようになった。一方、新渡戸稲造らと村落研究の勉強会を行っていた農商務省官僚の柳田國男は、1909年、宮崎県椎葉村で聞き書きした狩猟の話を「後狩詞記」(のちのかりのことばのき)として自費出版し、柳田民俗学の第一歩を踏み出す。1913年からは雑誌『郷土研究』を創刊するとともに、当時イギリス留学から帰国した南方熊楠にゴム編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を借り受け、それまで余技の道楽ととらえていた民俗学を学問として体系化する道筋をつけたのである。

ヨーロッパのフォークロアやエスノロジーが、残存の概念によって古代との連続性を持った基層文化を明らかにしようとするのに対して、柳田は人々の生活向上を初期のモチベーションに、民俗学の目的は常民生活の歴史的変遷と同時代の生活文化との関係を考察することにあると考えていた。柳田が民俗学を構築しようとした意図は重層的であり、一つには庶民の生活史を看過する既存の文献史学へのアンチテーゼとして、二つには進化主義的な民族学や「土俗学」との棲み分けとして、三つには地方改良運動に代表される当時の国内文化政策への対抗言説として等、時代状況を反映したさまざまな企図がもくろまれていたとされる。
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ


1935年には柳田を中心に「民間伝承の会」が設立され、機関誌の発刊や民俗学講習会が行われた。またこの時代に柳田は概説書を精力的に執筆しており、学説史の中では学問としての組織や方法が整った1930年代半ばを民俗学の完成時期と見なすのが一般的である。1949年、「民間伝承の会」は日本民俗学会と改称され、この頃から大学にも民俗学の講座が設置されるようになった。それまでの民俗学は柳田邸で行われる木曜会や雑誌上において柳田が学徒を直接指導し、その成果が子弟を通じて全国に広まっていくという意味で、アカデミズムの枠外で展開した一種の運動体だったが、戦後の学制の中では東京教育大学や國學院大學、成城大学などにおいて専門教育が開始されることにより、現在にまで至る教育・研究の制度的枠組みが誕生した。

民俗学研究法
民俗学の調査手法としては、庶民の生活を総体的に把握するという目的を果たすため、農山漁村を中心とした集落に滞在し、聞き取り(聞き書き)調査や紙資料を含む文字資料(金石文、棟札など)の収集、建築物や民具など物質文化の記録、あるいは生業、共同労働、年中行事、人生儀礼などの場への参与観察、そして民俗誌の記述が主体となる。フィールドワークの蓄積からエスノグラフィーを描くことを重視するという意味では文化人類学の手法に近似するが、マリノフスキー以降の近代人類学が研究者個人による数ヶ月?数年の長期滞在調査を基本とするのに対し、民俗学では数日?数ヶ月スパンの中短期調査を繰り返し行うことが多く、また複数研究者による共同調査が実施されることも多い。

初期の民俗学では日本各地から集められた民俗資料を類型化・比較し、日本全体の枠組みの中で民俗事象の歴史的変遷を明らかにするという「重出立証法」が採られた。ジョージ・ゴム(George L. Gomme)の著作を元に柳田国男が提唱したこの方法論は長く民俗学の基礎理論だったが、一方では山口麻太郎や和歌森太郎などからは民俗の地域性を過小評価する方法論だとする批判意見も出された。学説史の中で最も影響力のある批判は福田アジオによるもので、民俗を日本全体での比較ではなく、それが伝承される村落や信仰組織等と切り離さずに分析すべきという「個別分析法」を提唱した。構造機能主義人類学の影響が色濃い福田の方法は、村落社会において民俗を捉え、それが生活の中で相互に連関しながら全体として有している意味を明らかにしようとする。民族全体のスケールの大きい歴史を追ってきたそれ以前の民俗学に比べ、福田の方法論は小規模集落(ムラ)の歴史それ自体をより実証的に描こうとする点に特色があり、同世代の宮田登が提唱する地域民俗学とともにポスト柳田民俗学の方法論として影響した。

もともと民俗学は文化人類学や社会学、宗教学、歴史学など多くの分野と密接に関連しており、ライフヒストリー研究やパフォーマンス理論、社会史、身体論等、研究対象によってはそれらの分野に通じる方法論が用いられることも多々ある。いずれにせよ民俗学の研究方法は分析的(Analytical)というよりは記述的(Descriptive)であり、対象へのインテンシブな調査を元に厚い記述(ギルバート・ライル)を目指す、いわゆる質的研究の一つに位置づけられる。

2009年04月05日

グレゴリオ聖歌

グレゴリオ聖歌(ぐれごりおせいか)は、西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント)の基軸をなす聖歌で、ローマ・カトリック教会で用いられる、単旋律、無伴奏の宗教音楽である。主に9世紀から10世紀にかけて、西欧から中欧のフランク人の居住地域で発展し、後に改変を受けながら伝承した。教皇グレゴリウス1世が編纂したと広く信じられたが、現在ではカロリング朝にローマとガリアの聖歌を統合したものと考えられている。

グレゴリオ聖歌の発展とともに教会旋法が成立し、グレゴリオ聖歌は8つの旋法で体系づけられることとなった。旋律の特徴としては、特徴的なインキピット(冒頭句)や終止(カデンツ)、メロディの中心となる朗誦音(リサイティング・トーン)の使用、またセントニゼイションと呼ばれる既存のメロディを転用する技法によって発展した音楽語法があげられる。音階は十二音音階ではなく、ヘクサコルドと呼ばれる六音音階が使用され、現代の全音階に含まれる音と、現在の変ロにあたる音を使用する。グレゴリオ聖歌の旋律はネウマ譜を用いて記譜され、このネウマ譜が16世紀に現代でも用いられる五線譜に発展した[1]。またグレゴリオ聖歌はポリフォニーの発展に決定的な役割を果たした。

歴史的には、教会では男性および少年合唱によって、また修道会では修道僧、修道女によってグレゴリオ聖歌は歌われてきた。グレゴリオ聖歌は、西方教会の各地固有の聖歌を駆逐し、ローマカトリック教会の公式な聖歌として、ローマ典礼に基づくミサや修道院の聖務日課で歌われるようになった。しかし、1960年代の第2バチカン公会議以降は現地語による典礼が奨められるようになったことを受けて、グレゴリオ聖歌の歌唱は義務ではなくなり、典礼音楽としてのグレゴリオ聖歌は次第に各国語の聖歌にとってかわられている。ただし、ローマ教皇庁の見解としては、依然としてグレゴリオ聖歌が典礼にもっともふさわしい音楽形態である[2]。20世紀には、音楽学の対象としてグレゴリオ聖歌の研究が進み、典礼を離れた音楽としても人気を得た。

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2009年03月21日

お召し列車には列車番号はなく

お召し列車には列車番号はなく、ダイヤ上でも「お召し」である。ただし現在のJR東日本では列車の運行管理をコンピュータで行う関係で、お召し列車にも列車番号を付与している。下りは9001、上りは9002という列車番号が使われることが多いが、一概にはいえない。新幹線の場合は、一般の団体臨時列車と同じような列車番号が付けられることが多い。

お召し列車の運行には「三原則」があるといわれている。
ドリーム ミリバ すぐき菜 ちそう パンプ ハーフ カバー しゃるどね リニュ バイオ カリソウ ノータック キシャー スモー スンドゥ ずっき じゅんか チンチラ ブタジ カーネ ロゴ チェック アクシオン ロメン 銀色の雨 マスタ ミーゴー パエリ きんあか ディン ワスプ ハロー ジスト パレード たーつぁい オテコ オープン たまりん ジャグ メラノ カーコン ツガWEB アプリ オービタル ハーフ ナビ夕立 エスアイ つくし プレイシ ハイブ

他の列車と並んで走ってはならない
追い抜かれてはならない
立体交差では上の線路をほかの列車が走ってはならない
このため臨時に他の列車の時間調整を行なう他、事故等不測の事態に備えてダイヤ作成担当者がお召し列車に添乗する。

戦前にはお召し列車の10分程前に先導列車が運行され、先導列車が通過後はポイント操作が許されないなど特別の配慮がとられた。21世紀初頭の現在でも同様の措置をとる場合がある(後述の記載も参照、とりわけ鉄道ファンなどから「露払い列車」と呼ばれることが多い)。

お召し列車担当の運転士は、運転区間を管轄する車両基地内で技術・勤務態度・人間性を考慮して選ばれる。特に衝撃のない発車や停止、数秒の狂いもない運転、数センチのズレも許容されない停止位置など、通常の列車に比べて非常に緻密な運行が要求されるため、運転技術が特に優秀な運転士が選任されている。

移動日や時刻は官報によって公示されている。ただし通常の列車の場合もあるので、必ずしもお召し列車による運行とは限らない。あくまで皇族の行事参加および移動を掲載しているためである。

お召し列車は原則として夜間には運転されない。長時間を要した戦前には途中の御用邸で宿泊しながら移動していた。例外は、1947年(昭和22年)12月11日に姫新線林野駅15時42分発、東京駅翌6時57分着で運転された、お召し列車唯一の夜行列車である。また1946年(昭和21年)6月6日 - 6月7日に銚子市を訪問した際には、戦災で天皇が宿泊できるような邸宅や旅館などが銚子に残っていなかったことから、銚子駅の先に存在していた貨物駅である新生駅に御料車を引き込んで、その中で宿泊したことがある。2008年現在天皇が御料車内で宿泊した例が確認されるのはこの2件のみである[2]。

その他 [編集]
元号が平成となってからは、ダイヤの変更などで国民に迷惑をかけることを望まない今上天皇の意向やその他の事情によって、行幸は一般の定期列車や臨時列車の一部の車両や航空機(政府専用機、民間機)を利用することが多くなったことから、お召し列車が運行されることは少なくなっており、国賓の接待の一環としての性格が強くなっている。また、同様の理由で原宿駅側部乗降場(宮廷ホーム)の利用も少なくなっている。

お召し列車も団体専用列車の範疇に含まれるため、運行は定期列車の合間を縫って走らせ、運賃・料金も当局から然るべく支払われている。お召し列車を運行するにあたっては、事前の準備や警備体制などに多大な経費を要しているが、慣例として当日のお召し列車運行そのものに掛かった経費のみを宮内庁が支払っている。日本国有鉄道(国鉄)時代はお召し列車の運賃は無料であったが、国鉄分割民営化にあたって民鉄でお召し列車を頻繁に運行していた近鉄に実情を問い合わせて、それに合わせる形で経費を計算することになった。また、宮内庁がお召し列車の運転を申し込む窓口は、運転線区にかかわらずJR東日本が担当している。これは民営化直前に、当時の国鉄運転局列車課長が宮内庁の問い合わせに対し、「おそらく皇居に近い東京駅を管轄する東日本会社が担当するだろう」と答えたことが慣例となって続いている[3]。

現代においても、お召し列車の運行に際しては沿線や駅の警備のほかに、下記のような細心の注意が払われていることが多い。

車両が故障した時の代替として予備車を用意する。
通常の車両を使用する場合でも塗装を塗り直した上でフラットをなくすために車輪の削正(厳密な円柱形への削り直し)を施行し、窓を防弾ガラスにする(新規製造時にVIPの乗車を考慮し、あらかじめすべてまたは一部の窓を防弾ガラス仕様にしておく例もある)。また、警察用無線の設置スペースが確保されている。
本列車の運行の直前に特別の回送列車(通常は単行機関車列車)を走らせ、線路上に問題がないことを確認する(通称「露払い」)。過去には営業用列車が担当した事もある。
列車の性格上、非常に厳重な警備が行われるが沿線での写真撮影が全面禁止されているわけではなく、お召し列車を撮影する鉄道ファンも少なくない。

車両前面に方向幕が装備されている車両をお召し列車として運行する場合、方向幕には何も表示しない(白無地一色の幕)。

平成時代の主な運転記録 [編集]
1993年(平成5年)
5月12日 - 西武鉄道池袋線池袋?西武秩父線西武秩父間往路 5000系5507F6両
この列車に使用された座席は武蔵丘車両検修場に保存されている。
復路は翌日秩父鉄道長瀞駅から国鉄185系電車により上尾駅まで運行した。
1996年 (平成8年)
10月24日 - 両毛線小山〜足利間往復 本務機EF58形61号機+1号編成客車
ベルギー王国アルベール2世夫妻と同乗。
1号編成の運転は9年ぶり、EF5861の牽引は12年ぶり。
先王のボードゥアン1世夫妻が1966年1月来日の際に2号御料車に乗車している。外国の国王が二代続けて御料車に乗車したのは初。
運転に際して機関車前面に両国の国旗が掲げられたが、これは戦後になって初のケースとなった(外国要人乗車の際は戦前は国旗を掲げて運転されていたが、戦後は国旗取り付けを行なっていなかった).
1999年(平成11年)
4月8日 - 中央本線大月?山手線原宿間(片道)本務機EF58形61号機+1号編成客車
ルクセンブルク大公国ジャン大公夫妻と同乗。
2000年(平成12年)
9月30日 - 山陰本線京都?舞鶴線東舞鶴間(片道) 281系6両
10月2日 - 北近畿タンゴ鉄道宮津線天橋立?北近畿タンゴ鉄道宮福線大江間(片道) 281系6両
2001年(平成13年)
3月23日 - 東海道本線東京?横須賀線北鎌倉間(片道) 本務機EF58形61号機+1号編成客車
5月19日・21日 - 山手線原宿?中央本線甲府間(19日甲府行・21日原宿行) E351系8両・非常時救援車DD51形842号機およびEF64形37号機(八王子にて待機)
10月14日 - 東北新幹線東京?仙台(片道?) 200系H4編成/東北本線仙台?気仙沼線柳津間(片道) 本務機DD51形842号機+1号編成客車・予備機DD51形888号機(小牛田にて待機)
2002年(平成14年)
6月3日 - 陸羽西線新庄?羽越本線酒田間(片道) 本務機DD51形842号機+1号編成客車・予備機DD51形895号機
11月18日 - 松浦鉄道西九州線たびら平戸口-大村線大村間(片道) キハ185系4両(長崎方からキハ185-6+キハ186-6+キハ185-7+キハ185-3)
2003年(平成15年)
10月5日・6日 - 山陰本線松江?山口線津和野間(5日浜田行・6日津和野行、ともに片道) 本務機DD51形1186号機+1187号機+サロンカーなにわ5両・予備機DD51形1109号機+1183号機・非常時救援車キハ181系5両(津和野駅に待機)
2005年(平成17年)
8月29日・31日 - 中央線東京(高架ホーム)?小淵沢間(29日小淵沢行・31日東京行〈東海道線〉) E257系M101編成9両
2006年(平成18年)
5月20日 - 東海道本線名古屋?岐阜?高山本線下呂間(片道) キハ85系4両
5月21日 - 高山本線飛騨萩原?東海道本線岐阜間(片道) キハ85系4両
10月30日・31日 - 唐津線佐賀?唐津間(30日唐津行・31日佐賀行) キハ185系4両

2007年(平成19年)
3月28日 - 西武鉄道 新宿線 西武新宿?本川越間(往復) 西武10000系10108F7両(予備車10106F)
スウェーデン国王カール16世夫妻と同乗。
11月10日 - 東海道新幹線 東京駅?京都駅(片道) 700系16両
11月12日 - 東海道本線 大津駅?草津線 貴生川駅(往復)281系6両 (使用A609編成、予備A608編成、乗車車両クロ280-9)
11月13日 - 東海道新幹線 京都駅?東京駅(片道) 700系16両
2008年(平成20年)
10月30日 - 東海道新幹線 東京駅?京都駅(片道) 700系16両 (使用C51編成)
10月30日・31日 - 近畿日本鉄道 京都線 京都駅?奈良線 近鉄奈良駅(30日奈良行、31日京都行) 近鉄21020系6両(使用UL21編成、乗車車両モ21321)
11月2日 - 東海道新幹線 京都駅?東京駅(片道) 700系16両
11月12日 - 常磐線 上野駅?土浦駅(片道) E655系6両(初めてのE655系によるお召列車)
11月12日 - 首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス つくば駅?南千住駅(片道) TX-2000系6両
スペイン国王フアン・カルロス1世・ソフィア夫妻と同乗。先頭車両には日西両国の国旗が掲げられた。(MSN産経)

逸話 [編集]
戦前においては、お召し列車運行に関わるわずかなトラブルでさえもその社会的制裁は家族を含めて一生付きまとうものであった。実際にトラブルが元で自殺した鉄道職員がいた。1911年11月11日に門司駅(現在の門司港駅)構内でお召し列車の車輪に幌の紐が絡まったため故障し、明治天皇の休憩時間が5分の予定が1時間になる事態が発生した。そのため、同駅の構内主任が責任を取る旨の遺書を残して鉄道自殺した。自殺を知った明治天皇は事態を不問に付したほか、遺族を哀れみ300円(当時の額 現在の価値では600万円)を弔慰に賜与したという。
単線区間の閉塞方法(同じ区間に同時に2つの列車を走らせない)として通票閉塞方法が採用されていた時期に、通過駅で通票を授柱からお召し列車の機関士が受取に失敗、再度取りにいく為停車する事態になった。このトラブル以後、お召し列車は受け取りに失敗した場合は、通票を谷底に落とした場合と同様に、そのまま進行してもよいとの通達が出された。
戦前はお召し列車を陸橋や丘陵などから見下ろすことまで「不敬である」として官憲により規制された。1930年11月に発生した富士瓦斯紡績川崎工場の争議はこの理由から解決した。この時に出現した煙突男が岡山から帰る途中のお召し列車を煙突から見下ろす体勢になることから、引き降ろすために労働者側の要求をほぼ受け入れ、煙突男を引き降ろした。その直後、お召し列車が多摩川橋梁を通過したといわれる。
天皇・皇后が御料車に同乗するようになったのは戦後になってからの事で、戦前は原則としてそれぞれに専用の御料車を連結して運転していた。乗車の際は皇后がホームで天皇が乗車するのを見届けてから乗車していたという。

2009年03月06日

アイザック・ハルの指揮で、コンスティチューション

1812年早く、イギリスとの関係が険悪なものとなり、海軍は戦争の準備を始めた。米英戦争の宣戦布告は6月20日になされた。1810年に指揮官に任命されたアイザック・ハルの指揮で、コンスティチューションは6月12日に命令無しで出港し、港湾封鎖に備えた。ハルの考えはロジャース艦隊の5隻と合流することだった。

コンスティチューションは7月17日にニュージャージー州エッグ・ハーバー沖で5隻の艦影を認めた。翌朝、見張りがそれらの船はイギリス海軍の艦隊であることを確認した。イギリス艦隊もコンスティチューションを視認し追掛け始めた。ハルは風が凪いでいることを感じ取り、熟練した乗組員はボートを下ろして艦を曳航させた。小錨を使って艦の向きを良くし、帆を濡らして重たくし少しの風でも仕えるようにした。これで緩っくりとではあるが追いかけるイギリス艦隊との距離を離した。7月の過酷な暑さの中での2日2晩にわたる骨折りによって、コンスティチューションは遂に追跡者をまいた。

縺れ合った戦いでコンスティチューションはゲリエールの前檣を折った1ヵ月後の8月19日、コンスティチューションはノバスコシア海岸沖で、イギリス艦隊の1隻やや小さなフリゲートHMSゲリエール(38門艦)と遭遇した。イギリスのフリゲートは射程距離に入ると砲撃を開始した。ハル艦長は搭載砲による攻撃を止めて、2つの艦がわずか25ヤード (23 m)まで近付いたときに砲撃を開始した。戦闘の間に両艦は3度衝突したが、海兵隊員らのマスケット銃による銃撃が交わされ、乗組員の移乗攻撃を妨げていた。3度目の最後の衝突のときに、ゲリエールの斜檣がコンスティチューションの艤装に絡まった。両艦が引き分かれると、ゲリエールの斜檣を引く力が艤装を通じて衝撃を与えた。ゲリエールはフォアマストを折られ、続いてメインマストも引きずり倒された。マストにひどく損傷を受けたゲリエールは、港への曳航も叶わなくなった。

コンスティチューションは舷側砲の強さと優れた帆走能力を持っていた。イギリス軍の水兵も驚いたことに、彼らの放った砲弾がコンスティチューションの強いライブ・オーク製の側板に跳ね返されて損傷を与えられなかった。コンスティチューションは「古い鉄の船腹 」("Old Ironsides")と渾名された。

この年の12月、ウィリアム・ベインブリッジ指揮となったコンスティチューションは、イギリスの別のフリゲートHMSジャバ(38門艦)と遭遇した。3時間におよぶ戦闘により、ジャバは修繕も出来ないほど破壊され焼却処分にされた。コンスティチューションの勝利はアメリカの市民の士気に大きな昂揚感をもたらした。

その後1815年の終戦までに、修繕や港湾封鎖の影響で長い月日を港の中で過ごしたにも拘わらず、コンスティチューションはチャールズ・スチュワート艦長の指揮で他に8隻を捕獲した。その中には艦隊を組んでいたフリゲートHMSサイアニー(22門艦)とスループ艦レパント(20門艦)を同時に捕獲したことも含まれる。その後6年間の大改装を経て大西洋艦隊の旗艦に戻った。コンスティチューションは1828年にボストンに帰港した。

再改造後の1835年の就役
1830年に行われた検査で、コンスティチューションはそれ以上の就役に適さないとされたが、アメリカの世論がその解体に大きな不満を表した。特にオリバー・ウェンデル・ホームズの詩「オールド・アイアンサイズ」が出版された後はその声が大きくなった。アメリカ合衆国議会はコンスティチューションの再建予算案を可決し、1835年に再び就役した。コンスティチューションは地中海と南太平洋で旗艦として従軍し、1844年3月に始まる30ヶ月の世界周航も果たした。

1850年代、コンスティチューションはアフリカ沿岸を奴隷貿易船を探して警戒航海し、南北戦争の間は海軍士官候補生の訓練艦となった。しかし、コンスティチューションは同型艦とともに戦闘艦としては急速に時代遅れとなった。1838年には既に蒸気船が大西洋航路に就航しており、南北戦争中のハンプトンローズ海戦では鋼板製あるいは鋼板被覆製の船に対して木造船の弱さを示すことになった。
オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル

しかし、前線での活動は制限されたものの、コンスティチューションは海軍と国のための活動を続け、1871年に再改造の期間を持った後、1878年のパリ万国博覧会に品物を運んだり、練習艦として活動した。1882年の退役後、コンスティチューションはニューハンプシャー州ポーツマスで接待船として使われた。1897年には生誕100周年を記念してボストンに帰港した。

1925年の修復
1905年、コンスティチューションは大衆の支持で今一度解体を免れた。1917年、レキシントン級巡洋戦艦のコンスティチューション (CC-5)に名前を譲るため、オールド・コンスティチューションと名前を変えられた。巡洋戦艦コンスティチューション (CC-5)は、1922年のワシントン海軍軍縮条約に従い、1923年に建造中止となった(全体の14%しかできていなかった)。コンスティチューションは1925年に元の名前となり、学校の生徒や愛国者集団の寄付によって再修理を施された。1931年に再就役し、引き舟に引かれて就航した後は、アメリカ大西洋岸、メキシコ湾岸およびアメリカ太平洋岸の90の港湾都市を訪ねて回った。

3年間の訪問航海中、460万人以上の人がコンスティチューションの見学に訪れた。コンスティチューションはアメリカの象徴としての位置づけを獲得し、母港のボストンに帰港した。1940年コンスティチューションは永久就役ということになり、1954年の議会法でアメリカ合衆国海軍長官がその維持管理の責任を負うことになった。

1976年7月11日、アメリカ合衆国の独立200周年を祝うために、イギリスのエリザベス2世とエディンバラ公がボストンを訪れ、指揮官のタイロン・G・マーチンと共にコンスティチューションに乗船した。海軍長官のJ・ウィリアム・ミッデンドーフは、1970年代初期の改修の際に船穀から取り出した当初材を使って制作した私物箱を女王に進呈した。

2009年02月14日

放課後恋愛クラブ -恋のエチュード-

「オカズウェア」を標榜し、スカトロを数多く描く、マニアックな抜きゲーを手がけてきたLIBIDOが初めて手掛けた純愛タイプのアドベンチャーとなる。そういった経緯から、発売当時はLIBIDOがこれを機に作風を一新するのではないかという憶測も流れた。しかし半年後に発売された次作『放課後マニア倶楽部 -濃いの欲しいの-』では本作のヒロインがマニアックな変態的Hシーンを繰り広げており、本作の純愛路線が次作のマニア路線をより引き立てる結果となった(いわば、2作で表裏一体のソフトといえる)。
ただみま まおい プロト 光の子 クロスス マンドゥク パロア 変革生活 ポケット コバンソ レスク 白い花 めんこ シュズ モンス ゼルス リュウ カイヤ ハマヒ フォーク ダイア モダリティ いきこう ジアル セーブル フロー ぴかいち さんめし しぎやき オーバ ナビ本陣 海のミネ ナビ朱鳥 NO1里芋 たきかわ にしめ ゾンデ ミストレス マート キシロース オルゴール ディーラム フライ カスタード ツリー 十三夜 フアラ くまざさ ノット クォーツ

主人公は恋愛サークル「放課後恋愛クラブ」の一員となり、同じく会員のヒロイン達と会話を楽しむ。会話は1日3人までと可能で、状況によっては会話選択が発生。それによってヒロインとの恋愛フラグが成立すれば、休日デートやその後のHシーンなどが発生する。「恋愛ノート」と称される各種小ウィンドウ群が特徴的で、ヒロインのプロフィールや活動記録、現在いるスポットの情報などを随時閲覧できる。

一般的な恋愛アドベンチャーで多く描かれるようなドラマチックな描写は少なく、男女の等身大の恋愛模様を描き出した会話テキストが印象的。ウィンドウを多様したシステムに、「LIBIDO塗り」と称される当時としてはハイレベルなビジュアルとが相まって、ファンからは高い評価を得た。その一方で、メッセージスキップがないというLIBIDO作品共通の問題や、会話選択によるフラグ立てがわかり辛いといった点が不満として挙げられることが多い。

なお、マニュアルにはヒロインのプロフィールに年齢や所属校が明記されており、その後に改定された倫理規定では描けない性描写も行われている。

セガサターン版では、Hシーンを排除した代わりにオリジナルCGとアニメーションやキャラクターの音声が新規に収録された。ただし、ビジュアルのレベルがオリジナルに比べて低く、音声はイベントシーンのみとなっている。

天城 錬一(あまぎ れんいち)
声:石田彰
本作の主人公。ごく普通だが、ちょっとかっこいい感じの男子。そのため、女子からは密かに人気がある。理屈っぽいが、時には強気に出ることも。
島本 威明(しまもと たけあき)
声:関智一
恋愛クラブの会長。明るく誰とでも仲良くなれるタイプで、その交友関係の広さを武器に、多くのヒロインをクラブに入会させる。ただし、恋愛となると友達止まりで終わってしまうタイプでもある。小太郎に対しては強気に出ることが多々ある。
河合 小太郎(かわい こたろう)
雛子の弟で、内気で物事に凝るオタクっぽい男の子。その本性は、後に主人公を務める『放課後マニア倶楽部』で明らかとなる。
『放課後マニア倶楽部』では設定によっては雛子と苗字が違ってしまうが、物語中では「両親が夫婦別姓を選択したため、別々の姓になった」と説明されている。

ヒロイン
織原 早苗(おりはら さなえ)
声:中川亜紀子
本作のメインヒロイン。物静かで優しい性格だが、芯の強さと情熱を内に秘める。恋愛面では優しさが勝り、三角関係になると自ら引いてしまう傾向がある。
堀川 ななせ(ほりかわ -)
声:七瀬里緒
早苗を慕う後輩で、元気かつ物怖じしないタイプ。錬一に一目惚れし、好意を隠さず積極的にアタックを掛ける。
新堂 和美(しんどう かずみ)
声:茶山莉子
明るく気軽に付き合えるタイプ。威明とは幼馴染だが、ケンカ友達で恋愛感情はなし。
河合 雛子(かわい ひなこ)
声:松本美和
主人公の先輩で、小太郎の姉。年上だが、おっとりとして純粋で可愛らしいタイプ。
美咲 椎那(みさき しいな)
声:そのざきみえ
早苗の親友で、地元のスポーツクラブに所属する体操少女。恋に悩む早苗を見て、自分も恋愛を意識するようになる。
堀川 むつみ(ほりかわ -)
声:七瀬里緒
ななせの姉。絵本作りが好きな文学少女で、眼鏡を掛けている。慎重で堅実な性格。
仁藤 加奈未(にとう かなみ)
声:美木まさき
コギャル風の目立つ容姿と言動が特徴だが、性格は乙女チック。仲間が処女を捨てたという話を聞き、彼氏を探すために恋愛クラブに入会する。
遊佐 倫子(ゆさ りんこ)
声:永瀬いくみ
錬一達の通う杜陽学園のアイドル的存在で、有名な女流作家を母親に持つ。
山科 瑞穂(やましな みずほ)
声:小川里永子
教師を目指す大学生で、威明の家庭教師をしていた縁で恋愛クラブに入会する。自立した大人の女性だが、お嬢様育ちが災いして年頃の悩みを誰にも打ち明けられずにいる。
園崎 操(そのざき みさお)
声:柏平佳代
専門学校生で、恋愛クラブの舞台となるファミレス「Starry Sky」のウェイトレスでもある。奔放な性格で恋愛にも貪欲だが、一方で恋愛で自分が傷つきたくないという臆病な面も併せ持つ。
若槻 杏奈(わかつき あんな)
声:浅田葉子
恋愛クラブの最年少メンバー。おませな性格だが、その恋愛知識のほとんどは大人の受け売り。操に憧れている。
稲葉 歩(いなば あゆむ)
声:茂呂田かおる
自称歌姫で、恋愛クラブに入会したのもバンドのメンバー探しが目的。自分のスタイルにこだわりが強く、「恋愛はスマートに」がモットー。

2009年01月28日

李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。
キッド マロン マーブル モーダル メープル ピュア スポア 九月の砂 カトブレ ほわい ワイヤー シャム モード イグサ チカツ レーザー ルイス WEB大葉 ブリッジ ルーマニア ネチケット アイド タランチ キャラメル オフェンス ハラタ ヒット メーザー イヤリング ルバッ なかにい 片道切符 いろんな いばば ねっび ローブ アスク リカレ フライト グアバ ナチガイド トライア ブイヨン シャンビ ゼムクリ スケルツォ ナビハズ ビビッド むぎこうじ マッシュル

日本の戦費総額は日本円で3億円、死者1.3万人。この戦争期間は10か月であった。

日本では広く日清戦争(にっしんせんそう)と呼称されているが、正式な名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese Warで、欧米では日中間の戦争と捉え、第一次中日戦争 と呼ぶ。

関与国・勢力
参加国・勢力
 大日本帝国 vs  清国

支持勢力
日本側
 李氏朝鮮 独立党(開化派)  清国側
 李氏朝鮮 事大党(保守派)

戦争目的と動機[1]
 大日本帝国

日本に接する朝鮮半島を清国の冊封国から独立させ、近代化を進めることで、欧米による植民地化の流れを食い止め、日本の安全保障を確保しようとした戦争 。

 清国

清国の力(中華思想)を国内外に誇示することを目的としたイデオロギー戦争
清国の宗属である朝鮮半島への影響力の保持を目的とした戦争。

経緯
前夜
海洋国家である日本は古代の百済再興の依頼に呼応した白村江の戦い、その後の百済・高句麗遺民の受け入れなどのように中国との中継地で文化伝搬や自国の安全と安定に大きな影響を及ぼす朝鮮半島に関心を持ち、度々干渉や援助活動を行って来た。

13世紀に台頭した元朝は、世界帝国形成の一貫とした元寇の際、既に冊封国とした高麗軍を組織し半島からも2度にわたり、日本を侵略しに攻めてきた。

一方、16世紀末、日本でも国を統一した豊臣秀吉が明国の征服を目的に文禄・慶長の役を起こしてその進路にあった朝鮮を侵略した。しかし結局、明軍の援助を得た朝鮮に撃退された。このように朝鮮半島は日本にとって攻守共に地政学的に重要な位置を占めていた。

その後、韓国では李成桂の時に仏教を廃止し儒教、朱子学を導入すると両班が横暴し国力が疲弊し、事実上清国の隷属国家となった。一方、日本は江戸幕府の時代になると藩を幕藩体制を敷き鎖国政策を取ったが、朝鮮通信使などに見られるように朝鮮国と長い間、友好を保ってきた。

しかし1840年に清国がイギリスとのアヘン戦争で破れると東アジアにおける欧米諸国の脅威が迫ってきた。日本も1854年にアメリカの干渉によって200余年間続いた鎖国が終わり、開国する。日本は開国するとすぐに欧米諸国の実情視察と西洋の政治、法律、軍事、科学などの学問を学ぶため代表団(岩倉使節団)と学生たちを派遣すると共に欧米列強に侵略されない国づくりの指針を定め、富国強兵、近代産業の興業、思想改革(封建制・身分制の撤廃[2])などを推し進めた。
同時にウラジオストックを拠点に北樺太・北千島、中国東北部に勢力を広げてきたロシア([南下政策])を自国の安全保障上、直接の脅威になると捉え、日本本土への南部の玄関口にあたり、清国の強い影響力にあった朝鮮半島([李氏朝鮮])の自主を回復させ、日朝の強い協力関係を構築し安全を確保しようと画策した。

開戦まで
征韓論
日本政府は明治維新の攘夷運動の教訓から幕末の佐久間象山や吉田松陰ら国学者らが唱えていた「夷をもって夷を征す(欧米の力を取り入れ殖民地になるのを防ぐ」という方針を国家づくりの基礎として、盛んに欧州の技術や文化を取り入れ近代化を推し進めていた。同時に東アジアにおけるロシアをはじめとする欧米列強による植民地化の流れを防ぐことで自国の安全と安定を図ろうと考えた日本政府は、朝鮮半島に対し、西洋に対抗するには、東洋の近代化と貿易が重要であることを訴え、朝鮮との交渉を始めた。しかし、当時の朝鮮は鎖国状態で、周辺の社会情勢について詳しくなく、日本で起きた革命の意図もあまり理解していなかった。当時、政治の実権を握っていた国王高宗の父である大院君は対外政策では欧米諸国の侵入に対し激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交の樹立に反対し、交渉は一向に進まなかった。

こうした状況下の1873年、明治政府はその打開策として、まずは西郷隆盛を中心とする使節を派遣することを閣議決定した。

しかし、当時西洋の政治を学ぶために欧米各国を視察していた岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通達が、それを知って急いで帰国した。繁栄していた欧米列強を目の当たりにした、岩倉・大久保らをはじめ、太政大臣の三条実美は、まずは国力充実を図ることが先として、万が一朝鮮と交戦状態になれば本来の目的である東アジアの大同団結を損ねるのみならず莫大な戦費が必要となること等も鑑みこの決定に反対し、決定が取り消された。これを明治六年政変(征韓論政変)といい、西郷達は下野し、西南戦争が起きる要因となった。また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。

江華島事件
大久保らが実権を握った日本は、1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日米修好通商条約を参考に作られた日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮半島を開国させた。朝鮮は当時清国の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われた。

独立党と事大党の対立
江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきた。

壬午事変
1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになった。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗した。

1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられた。

長崎事件
1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなった。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化した。

甲午農民戦争
1894年5月に朝鮮で、東学教団構成員の全琫準を指導者として民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた。5月31日には全州が陥落し、朝鮮政府はこれを鎮圧するため、清に派兵を要求した。このとき、天津条約に従って日本側に派兵することを通知した。

日本政府は、議会との激しい対立(5月30日、政府弾劾上奏案可決)により政治的に行き詰まっており、対外的に強硬にでて事態打開をはかろうとした。加えて、清によるこれ以上の勢力拡大を恐れていたため、壬午事変の結果締結された済物浦条約を根拠として公使館と在留邦人の保護のために1万人規模の大軍の出兵を決定した。事態の悪化にあわてた朝鮮政府は農民軍の要求をほぼ全面的に受け入れ、6月10日に停戦(全州和約)。農民軍は全州から撤退した。

日清戦争開戦
甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化した。

日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まった。なお、宣戦布告は8月1日である。

なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していた。

宣戦
日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものである。

「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」

戦争の経過
日清戦争7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破った。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧した。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始した。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領した。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かった。

講和条約
開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き、清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし、日本は遼東半島の完全占領を目指していたため、この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれた。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行った。

条約の主な内容は次の通り

清は朝鮮が独立国であることを認め、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子がある。

これにより、千年以上にわたるチャイナによる朝鮮の属国状態が解消された。

三国干渉とその後
当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発した。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。

戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。

台湾では、清朝の役人と台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北した。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始した。

年表
1894年 5月 朝鮮政府、甲午農民戦争(東学党の乱)の鎮圧を清朝に依頼
5月31日 内閣弾劾上奏決議案が衆議院で可決され、伊藤内閣が倒閣の危機に直面
6月2日 在韓邦人保護を名目として日本軍の朝鮮派兵を決定。衆議院を解散。
6月5日 大本営を開設し、朝鮮への派兵を開始
7月16日 日英条約改正(日英通商航海条約)が実現
7月20日 朝鮮政府に対して清軍の撤兵を要求する最後通牒を発令
7月23日 旅順西海岸の制海のため連合艦隊が佐世保を出港。
7月23日 日本軍が漢城(ソウル)に入城し、朝鮮王宮を勢力下に置く。
7月25日 豊島沖海戦(高陞号事件)
8月1日 日本・清国が互いに宣戦布告
8月26日 日本は朝鮮に圧力を掛け親日政権を樹立、共同で清国に対処する方針を採らせる。
9月15日 明治天皇が戦争指揮のため広島に移ったことに伴い大本営も移動(広島大本営)。
1895年 3月 遼東半島全域を制圧
4月17日 講和条約締結(下関条約)
4月23日 三国干渉により遼東半島を返還

戦闘
日清戦争当時の海戦の映像
豊島沖海戦
7月25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三少将、「吉野」「浪速」「秋津洲」)は、清国軍艦「済遠」「広乙」と遭遇し、戦闘が始まった。優勢な日本海軍の応戦の前に「済遠」は逃亡を図る。

日本海軍の「吉野」「浪速」も、直ちに「済遠」を追撃する。その途上、清国軍艦「操江」及び汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞号」に停船を命じて臨検を行うように発砲し、清国兵が停船命令に従わないため、魚雷で「高陞号」を撃沈する(高陞号事件)。この時、英国人船員ら3人を救助し、約50人の清国兵を捕虜とした。

豊島沖海戦による、日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。他方、清国側には、「済遠」が大破し、「操江」は「秋津洲」に鹵獲され、「広乙」も破壊された。

なお、「高陞号」を撃沈したことによって、一時英国の世論が沸騰するが、英国が日本寄りの姿勢だった事もあり、イギリスの国際法の権威、ジョン・ウェストレーキおよびチー・イー・ホルランド博士によって国際法に則った処置であることがタイムズ紙をとおして伝わると、英国の世論も沈静化する。

成歓作戦・牙山作戦
に清国軍が牙城に上陸する。7月23日時点で4165名に達する。7月25日に朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、牙山の清国軍撃退が要請される。7月26日に第9歩兵旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。7月29日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃する。午前2時に、清国兵の襲撃により松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死する(日本側初の戦死者)。午前7時に日本第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する。

両作戦の日本側の死傷者は82名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。

なお安城渡の戦闘で第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。

平壌作戦
平壌の戦い8月に清国軍は平壌に1万2千名の兵員を集中させる。9月15日に日本軍が攻撃を開始する。攻略に当たっていた日本軍の歩兵第18連隊長佐藤正大佐は銃弾を受け左足切断の重傷を負う。同日午後4時40分に清国軍は白旗を掲げて翌日の開城を約した。ところが、清国軍は、約を違えて逃亡を図る。同日夜に日本軍が入城する。

黄海海戦
伊東祐亨
連合艦隊旗艦松島
鎮遠黄海上で遭遇した日清両艦隊は、9月17日12時50分に「定遠」から攻撃が開始される。日本側は連合艦隊司令長官伊東祐亨中将率いる旗艦「松島」以下8隻と第一遊撃隊司令長官坪井航三少将率いる旗艦「吉野」以下4隻であるのに対して、清国艦隊は丁汝昌提督率いる「定遠」「鎮遠」等14隻と水雷艇4隻であった。日本艦隊は、清国「超勇」「致遠」「経遠」等5隻を撃沈し、6隻を大中破「揚威」「広甲」を擱座させる。日本側は4隻の大中破を出し、旗艦「松島」の戦死者の中には勇敢なる水兵と謳われた三浦虎次郎三等水兵もいる。

この海戦で日本側が勝利したことによって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を確保した。

鴨緑江作戦
10月25日払暁に、山縣有朋率いる第1軍主力は渡河作戦を開始した。日本軍の猛勢に恐れをなした清国軍は我先にと逃走を図り、日本軍は九連城を無血で制圧する。この作戦成功により、日本軍は初めて清国領土を占領する。

旅順攻略戦
10月24日に大山巌大将率いる第2軍が金州に上陸する。11月6日に金州城を占領する。11月21日に、日本軍1万5千は清国1万3千弱に対して攻撃をする。清国軍の士気は極めて低く、堅固な旅順要塞は僅か1日で陥落することとなる。

日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名に対して、清国は4500名の戦死、捕虜600名を出して敗退する。

攻略そのものは問題なかったが、その後の占領において大きな問題が発生した。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(同年12月12日付)により、「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺の有無や、虐殺された人数については諸説あるが、実際に従軍し直接見聞した有賀長雄は清国民間人の巻き添えが有ったことを示唆している。現在、この事件は旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。

この事件は外交的に大きな影響をもたらした。当時はアメリカと不平等条約改正を交渉中の最中であり、この事件により一時アメリカ上院には条約改正は時期尚早という声が大きくなり、重要な外交懸案が危殆に瀕した。陸奥宗光はこのため『ニューヨーク・ワールド』に弁明せざるを得なくなる事態に陥ることとなった。

山東作戦・威海衛作戦
1月20日に日本陸軍は栄城湾に上陸する。行軍中に歩兵第11旅団長大寺安純少将が戦死する。2月2日に威海衛を占領する。

2月5日午前3時20分に威海衛港内に侵入した日本水雷部隊は清国の「定遠」を大破、「来遠」「威遠」等3隻を撃沈した。2月9日に「靖遠」を撃沈、「定遠」は自沈する。2月12日に丁汝昌提督は将兵の助命を日本側に懇願して自決をする。伊東司令長官は、鹵獲艦船の中から商船康済号を外し、丁汝昌提督の亡骸を最大の礼遇を以て扱い、丁汝昌提督の最期の希望を聞き届け、清国兵を助命する。このことは、通常例を見ない厚遇であった。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督とともに、各国海軍の教本に掲載されていると云う。

日本軍の損害
脚気
当時、脚気は、原因不明の病であった。しかし、兵食に麦飯を採用していた海軍では、脚気による死者がほとんどいなかった(ただし、その航海食はビタミン不足であり、後年、石炭から重油に燃料が切り替わって艦隊の行動範囲が拡大する等により、脚気病患者が大幅に増加した)。その海軍の兵食改革(麦飯支給)に否定的な陸軍は、野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳(陸軍軍医総監・陸軍省医務局長)や軍医部長の一人森林太郎(森鴎外)などが科学的根拠がないとして、麦飯の支給に強硬に反対した。このため、とくに日清戦争後の台湾平定戦では、高温という脚気が発生しやすい条件も重なり、患者が急増した。最終的に陸軍は、罹患者・約4万人、病死者・数千人であり、その死者数は戦死者・数百人を上まわった(資料によって人数が異なる)。

なお、日清戦争当時は、軍の輸送能力が低いこともあり、兵站が滞ることがしばしばであった。たとえば、平壌の戦いでは、野津師団長以下が国内の下層民さえ食べないという黒粟や玄米などで飢えをしのぐ場面が度々であった。

凍傷
当時の日本陸軍は、まだしっかりした冬季装備と厳寒地における正しい防寒方法を持っておらず、結果として冬季の戦闘で多くの将兵が凍傷にかかり、相当な戦力低下を招いた。日清戦争後、この教訓を基にして防寒具研究と冬季訓練が行われるようになった。後年、対ロシア戦を想定した訓練中に発生したのが八甲田雪中行軍遭難事件である。

日本軍の兵站
村田銃による小銃規格の統一
欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていた。だが、各軍(日本の場合は旧藩)がそれぞれの基準によってバラバラに輸入を行ったために、さまざまな国籍・形式のものが混在してしまい、弾薬の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。

1880年(明治13年)、日本陸軍の村田経芳が日本で最初の国産小銃の開発に成功する。陸軍はこれを村田銃と命名して全軍の小銃の切り替えを進めた。その後、同銃は改良を進めながら全軍に支給されていった。日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていたわけではなかったが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていたため、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能となった。

一方、依然として小銃の混在状態が続いていた清国陸軍では、部品の補給などに手間取ってしまうなどの混乱が生じてしまい、日本軍の攻勢を食い止めるだけの火力を揃えることができなかったのである。

発行物
戦争終結後の1896年8月1日に、特殊切手として2銭・5銭の切手が各2種類発行された。

その他
海外では日清戦争の事を第一次中日戦争と呼んでいるが、実際には日本軍と中国軍が戦ったのは歴史的に見れば3度目である。一度目は白村江の戦い、二度目は文禄・慶長の役である(元寇は通常モンゴル帝国扱い)。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦は、順に1894年、1904年、1914年と、下一桁が4の年に始まっており、また十年毎の戦争のためか死の三十年[要出典]という語呂合わせもある。
1895年に日本が清に勝利すると下関条約が締結され、日本は清に朝鮮が自主独立国であることを認めさせた。1897年にもはや清の服属国でなくなったことから改革が実施され、「国号」を「大韓」と改め、高宗が皇帝に即位、大韓帝国が成立した。この際、清の冊封の象徴であった「迎恩門」や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒し「独立門」を記念に建てた。