日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。
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日本の戦費総額は日本円で3億円、死者1.3万人。この戦争期間は10か月であった。
日本では広く日清戦争(にっしんせんそう)と呼称されているが、正式な名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese Warで、欧米では日中間の戦争と捉え、第一次中日戦争 と呼ぶ。
関与国・勢力
参加国・勢力
大日本帝国 vs 清国
支持勢力
日本側
李氏朝鮮 独立党(開化派) 清国側
李氏朝鮮 事大党(保守派)
戦争目的と動機[1]
大日本帝国
日本に接する朝鮮半島を清国の冊封国から独立させ、近代化を進めることで、欧米による植民地化の流れを食い止め、日本の安全保障を確保しようとした戦争 。
清国
清国の力(中華思想)を国内外に誇示することを目的としたイデオロギー戦争
清国の宗属である朝鮮半島への影響力の保持を目的とした戦争。
経緯
前夜
海洋国家である日本は古代の百済再興の依頼に呼応した白村江の戦い、その後の百済・高句麗遺民の受け入れなどのように中国との中継地で文化伝搬や自国の安全と安定に大きな影響を及ぼす朝鮮半島に関心を持ち、度々干渉や援助活動を行って来た。
13世紀に台頭した元朝は、世界帝国形成の一貫とした元寇の際、既に冊封国とした高麗軍を組織し半島からも2度にわたり、日本を侵略しに攻めてきた。
一方、16世紀末、日本でも国を統一した豊臣秀吉が明国の征服を目的に文禄・慶長の役を起こしてその進路にあった朝鮮を侵略した。しかし結局、明軍の援助を得た朝鮮に撃退された。このように朝鮮半島は日本にとって攻守共に地政学的に重要な位置を占めていた。
その後、韓国では李成桂の時に仏教を廃止し儒教、朱子学を導入すると両班が横暴し国力が疲弊し、事実上清国の隷属国家となった。一方、日本は江戸幕府の時代になると藩を幕藩体制を敷き鎖国政策を取ったが、朝鮮通信使などに見られるように朝鮮国と長い間、友好を保ってきた。
しかし1840年に清国がイギリスとのアヘン戦争で破れると東アジアにおける欧米諸国の脅威が迫ってきた。日本も1854年にアメリカの干渉によって200余年間続いた鎖国が終わり、開国する。日本は開国するとすぐに欧米諸国の実情視察と西洋の政治、法律、軍事、科学などの学問を学ぶため代表団(岩倉使節団)と学生たちを派遣すると共に欧米列強に侵略されない国づくりの指針を定め、富国強兵、近代産業の興業、思想改革(封建制・身分制の撤廃[2])などを推し進めた。
同時にウラジオストックを拠点に北樺太・北千島、中国東北部に勢力を広げてきたロシア([南下政策])を自国の安全保障上、直接の脅威になると捉え、日本本土への南部の玄関口にあたり、清国の強い影響力にあった朝鮮半島([李氏朝鮮])の自主を回復させ、日朝の強い協力関係を構築し安全を確保しようと画策した。
開戦まで
征韓論
日本政府は明治維新の攘夷運動の教訓から幕末の佐久間象山や吉田松陰ら国学者らが唱えていた「夷をもって夷を征す(欧米の力を取り入れ殖民地になるのを防ぐ」という方針を国家づくりの基礎として、盛んに欧州の技術や文化を取り入れ近代化を推し進めていた。同時に東アジアにおけるロシアをはじめとする欧米列強による植民地化の流れを防ぐことで自国の安全と安定を図ろうと考えた日本政府は、朝鮮半島に対し、西洋に対抗するには、東洋の近代化と貿易が重要であることを訴え、朝鮮との交渉を始めた。しかし、当時の朝鮮は鎖国状態で、周辺の社会情勢について詳しくなく、日本で起きた革命の意図もあまり理解していなかった。当時、政治の実権を握っていた国王高宗の父である大院君は対外政策では欧米諸国の侵入に対し激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交の樹立に反対し、交渉は一向に進まなかった。
こうした状況下の1873年、明治政府はその打開策として、まずは西郷隆盛を中心とする使節を派遣することを閣議決定した。
しかし、当時西洋の政治を学ぶために欧米各国を視察していた岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通達が、それを知って急いで帰国した。繁栄していた欧米列強を目の当たりにした、岩倉・大久保らをはじめ、太政大臣の三条実美は、まずは国力充実を図ることが先として、万が一朝鮮と交戦状態になれば本来の目的である東アジアの大同団結を損ねるのみならず莫大な戦費が必要となること等も鑑みこの決定に反対し、決定が取り消された。これを明治六年政変(征韓論政変)といい、西郷達は下野し、西南戦争が起きる要因となった。また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。
江華島事件
大久保らが実権を握った日本は、1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日米修好通商条約を参考に作られた日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮半島を開国させた。朝鮮は当時清国の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われた。
独立党と事大党の対立
江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきた。
壬午事変
1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになった。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗した。
1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられた。
長崎事件
1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなった。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化した。
甲午農民戦争
1894年5月に朝鮮で、東学教団構成員の全琫準を指導者として民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた。5月31日には全州が陥落し、朝鮮政府はこれを鎮圧するため、清に派兵を要求した。このとき、天津条約に従って日本側に派兵することを通知した。
日本政府は、議会との激しい対立(5月30日、政府弾劾上奏案可決)により政治的に行き詰まっており、対外的に強硬にでて事態打開をはかろうとした。加えて、清によるこれ以上の勢力拡大を恐れていたため、壬午事変の結果締結された済物浦条約を根拠として公使館と在留邦人の保護のために1万人規模の大軍の出兵を決定した。事態の悪化にあわてた朝鮮政府は農民軍の要求をほぼ全面的に受け入れ、6月10日に停戦(全州和約)。農民軍は全州から撤退した。
日清戦争開戦
甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化した。
日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まった。なお、宣戦布告は8月1日である。
なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していた。
宣戦
日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものである。
「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」
戦争の経過
日清戦争7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破った。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧した。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始した。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領した。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かった。
講和条約
開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き、清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし、日本は遼東半島の完全占領を目指していたため、この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれた。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行った。
条約の主な内容は次の通り
清は朝鮮が独立国であることを認め、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子がある。
これにより、千年以上にわたるチャイナによる朝鮮の属国状態が解消された。
三国干渉とその後
当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発した。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。
戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。
台湾では、清朝の役人と台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北した。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始した。
年表
1894年 5月 朝鮮政府、甲午農民戦争(東学党の乱)の鎮圧を清朝に依頼
5月31日 内閣弾劾上奏決議案が衆議院で可決され、伊藤内閣が倒閣の危機に直面
6月2日 在韓邦人保護を名目として日本軍の朝鮮派兵を決定。衆議院を解散。
6月5日 大本営を開設し、朝鮮への派兵を開始
7月16日 日英条約改正(日英通商航海条約)が実現
7月20日 朝鮮政府に対して清軍の撤兵を要求する最後通牒を発令
7月23日 旅順西海岸の制海のため連合艦隊が佐世保を出港。
7月23日 日本軍が漢城(ソウル)に入城し、朝鮮王宮を勢力下に置く。
7月25日 豊島沖海戦(高陞号事件)
8月1日 日本・清国が互いに宣戦布告
8月26日 日本は朝鮮に圧力を掛け親日政権を樹立、共同で清国に対処する方針を採らせる。
9月15日 明治天皇が戦争指揮のため広島に移ったことに伴い大本営も移動(広島大本営)。
1895年 3月 遼東半島全域を制圧
4月17日 講和条約締結(下関条約)
4月23日 三国干渉により遼東半島を返還
戦闘
日清戦争当時の海戦の映像
豊島沖海戦
7月25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三少将、「吉野」「浪速」「秋津洲」)は、清国軍艦「済遠」「広乙」と遭遇し、戦闘が始まった。優勢な日本海軍の応戦の前に「済遠」は逃亡を図る。
日本海軍の「吉野」「浪速」も、直ちに「済遠」を追撃する。その途上、清国軍艦「操江」及び汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞号」に停船を命じて臨検を行うように発砲し、清国兵が停船命令に従わないため、魚雷で「高陞号」を撃沈する(高陞号事件)。この時、英国人船員ら3人を救助し、約50人の清国兵を捕虜とした。
豊島沖海戦による、日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。他方、清国側には、「済遠」が大破し、「操江」は「秋津洲」に鹵獲され、「広乙」も破壊された。
なお、「高陞号」を撃沈したことによって、一時英国の世論が沸騰するが、英国が日本寄りの姿勢だった事もあり、イギリスの国際法の権威、ジョン・ウェストレーキおよびチー・イー・ホルランド博士によって国際法に則った処置であることがタイムズ紙をとおして伝わると、英国の世論も沈静化する。
成歓作戦・牙山作戦
に清国軍が牙城に上陸する。7月23日時点で4165名に達する。7月25日に朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、牙山の清国軍撃退が要請される。7月26日に第9歩兵旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。7月29日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃する。午前2時に、清国兵の襲撃により松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死する(日本側初の戦死者)。午前7時に日本第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する。
両作戦の日本側の死傷者は82名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。
なお安城渡の戦闘で第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。
平壌作戦
平壌の戦い8月に清国軍は平壌に1万2千名の兵員を集中させる。9月15日に日本軍が攻撃を開始する。攻略に当たっていた日本軍の歩兵第18連隊長佐藤正大佐は銃弾を受け左足切断の重傷を負う。同日午後4時40分に清国軍は白旗を掲げて翌日の開城を約した。ところが、清国軍は、約を違えて逃亡を図る。同日夜に日本軍が入城する。
黄海海戦
伊東祐亨
連合艦隊旗艦松島
鎮遠黄海上で遭遇した日清両艦隊は、9月17日12時50分に「定遠」から攻撃が開始される。日本側は連合艦隊司令長官伊東祐亨中将率いる旗艦「松島」以下8隻と第一遊撃隊司令長官坪井航三少将率いる旗艦「吉野」以下4隻であるのに対して、清国艦隊は丁汝昌提督率いる「定遠」「鎮遠」等14隻と水雷艇4隻であった。日本艦隊は、清国「超勇」「致遠」「経遠」等5隻を撃沈し、6隻を大中破「揚威」「広甲」を擱座させる。日本側は4隻の大中破を出し、旗艦「松島」の戦死者の中には勇敢なる水兵と謳われた三浦虎次郎三等水兵もいる。
この海戦で日本側が勝利したことによって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を確保した。
鴨緑江作戦
10月25日払暁に、山縣有朋率いる第1軍主力は渡河作戦を開始した。日本軍の猛勢に恐れをなした清国軍は我先にと逃走を図り、日本軍は九連城を無血で制圧する。この作戦成功により、日本軍は初めて清国領土を占領する。
旅順攻略戦
10月24日に大山巌大将率いる第2軍が金州に上陸する。11月6日に金州城を占領する。11月21日に、日本軍1万5千は清国1万3千弱に対して攻撃をする。清国軍の士気は極めて低く、堅固な旅順要塞は僅か1日で陥落することとなる。
日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名に対して、清国は4500名の戦死、捕虜600名を出して敗退する。
攻略そのものは問題なかったが、その後の占領において大きな問題が発生した。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(同年12月12日付)により、「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺の有無や、虐殺された人数については諸説あるが、実際に従軍し直接見聞した有賀長雄は清国民間人の巻き添えが有ったことを示唆している。現在、この事件は旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。
この事件は外交的に大きな影響をもたらした。当時はアメリカと不平等条約改正を交渉中の最中であり、この事件により一時アメリカ上院には条約改正は時期尚早という声が大きくなり、重要な外交懸案が危殆に瀕した。陸奥宗光はこのため『ニューヨーク・ワールド』に弁明せざるを得なくなる事態に陥ることとなった。
山東作戦・威海衛作戦
1月20日に日本陸軍は栄城湾に上陸する。行軍中に歩兵第11旅団長大寺安純少将が戦死する。2月2日に威海衛を占領する。
2月5日午前3時20分に威海衛港内に侵入した日本水雷部隊は清国の「定遠」を大破、「来遠」「威遠」等3隻を撃沈した。2月9日に「靖遠」を撃沈、「定遠」は自沈する。2月12日に丁汝昌提督は将兵の助命を日本側に懇願して自決をする。伊東司令長官は、鹵獲艦船の中から商船康済号を外し、丁汝昌提督の亡骸を最大の礼遇を以て扱い、丁汝昌提督の最期の希望を聞き届け、清国兵を助命する。このことは、通常例を見ない厚遇であった。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督とともに、各国海軍の教本に掲載されていると云う。
日本軍の損害
脚気
当時、脚気は、原因不明の病であった。しかし、兵食に麦飯を採用していた海軍では、脚気による死者がほとんどいなかった(ただし、その航海食はビタミン不足であり、後年、石炭から重油に燃料が切り替わって艦隊の行動範囲が拡大する等により、脚気病患者が大幅に増加した)。その海軍の兵食改革(麦飯支給)に否定的な陸軍は、野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳(陸軍軍医総監・陸軍省医務局長)や軍医部長の一人森林太郎(森鴎外)などが科学的根拠がないとして、麦飯の支給に強硬に反対した。このため、とくに日清戦争後の台湾平定戦では、高温という脚気が発生しやすい条件も重なり、患者が急増した。最終的に陸軍は、罹患者・約4万人、病死者・数千人であり、その死者数は戦死者・数百人を上まわった(資料によって人数が異なる)。
なお、日清戦争当時は、軍の輸送能力が低いこともあり、兵站が滞ることがしばしばであった。たとえば、平壌の戦いでは、野津師団長以下が国内の下層民さえ食べないという黒粟や玄米などで飢えをしのぐ場面が度々であった。
凍傷
当時の日本陸軍は、まだしっかりした冬季装備と厳寒地における正しい防寒方法を持っておらず、結果として冬季の戦闘で多くの将兵が凍傷にかかり、相当な戦力低下を招いた。日清戦争後、この教訓を基にして防寒具研究と冬季訓練が行われるようになった。後年、対ロシア戦を想定した訓練中に発生したのが八甲田雪中行軍遭難事件である。
日本軍の兵站
村田銃による小銃規格の統一
欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていた。だが、各軍(日本の場合は旧藩)がそれぞれの基準によってバラバラに輸入を行ったために、さまざまな国籍・形式のものが混在してしまい、弾薬の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。
1880年(明治13年)、日本陸軍の村田経芳が日本で最初の国産小銃の開発に成功する。陸軍はこれを村田銃と命名して全軍の小銃の切り替えを進めた。その後、同銃は改良を進めながら全軍に支給されていった。日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていたわけではなかったが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていたため、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能となった。
一方、依然として小銃の混在状態が続いていた清国陸軍では、部品の補給などに手間取ってしまうなどの混乱が生じてしまい、日本軍の攻勢を食い止めるだけの火力を揃えることができなかったのである。
発行物
戦争終結後の1896年8月1日に、特殊切手として2銭・5銭の切手が各2種類発行された。
その他
海外では日清戦争の事を第一次中日戦争と呼んでいるが、実際には日本軍と中国軍が戦ったのは歴史的に見れば3度目である。一度目は白村江の戦い、二度目は文禄・慶長の役である(元寇は通常モンゴル帝国扱い)。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦は、順に1894年、1904年、1914年と、下一桁が4の年に始まっており、また十年毎の戦争のためか死の三十年[要出典]という語呂合わせもある。
1895年に日本が清に勝利すると下関条約が締結され、日本は清に朝鮮が自主独立国であることを認めさせた。1897年にもはや清の服属国でなくなったことから改革が実施され、「国号」を「大韓」と改め、高宗が皇帝に即位、大韓帝国が成立した。この際、清の冊封の象徴であった「迎恩門」や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒し「独立門」を記念に建てた。